愛はどこだね

フィクションかもしれません

ぜんぶ食べてしまいたい

まぶた、鼻の先、乾燥して赤くなった右頬、喉仏、顎の髭、耳たぶ、左の涙袋、わたしの唇が逃した場所はあるだろうか

もう何度もこの感触を味わっているのに飽きることはない、同時に、もうこれ以上味わえるものはないのだろうかと贅沢の尽きを思い知る

唇の奥に広がる空洞から貴方の中の空気を吸い込む、暗くて深くていきものくさい、この奥の世界がわたしが居なかった時代もあなたを作り出してきたと思うと愛おしくてたまらない、ぜんぶ食べてしまいたい

なかよくしましょう

わたしたちは、わたしたちは、なにも望んでいないのです。永遠などいらないのです。今はそんなものを語る資格がないのです。それより明日、明後日を生き抜く、きらめきが必要なのです。

必死に隠しています。気持ちをさらけ出しても、己の空白は人様で埋められませんから、かんたんに言葉にしようと思いません。ときに空気と話しているような、虚しさを覚えます。本当はもっと憎しみあいたい、貪るように噛みつきあいたい。だけど、しません。そんなことしたって明日、明後日が暗くなるだけですから。だます余裕とだまされる優しさを持ち寄って、つまらない自我を隠すのです。

仲良くしましょう。新しいことはいりません。わたしはもう、壊したくないのです。いつかフと来る終わりを待って、今はあなたと、笑っていたいのです。だから、あなたもつまらないわがままは隠して、わたしを騙し、わたしに踊らされていてください。お互い、これ以上のことは、もう望んでいないのですから。

おんなが、ふたり

あなたと関係を持っているという女性と先ほどばったり会ってしまいました。一番恐れていたことです。あの強情なあなたが叶わない女性、わたしは怖くて悔しくて、ずっと怯えてきたのです。声をかけてくださった時、わたしは目を丸くさせ、眉毛は不気味なほど縦に上がっていたと思います。その怯えた一瞬を、何も知らない彼女に伝わって欲しくなかったので、急いで口元をぎゅっと上にあげ、言葉は見つからず、ただひたすらに彼女の名前と「お久しぶり」を繰り返していました。彼女はわたしが記憶していたよりも小柄で、鼻は丸く、目が潤んでおりました。凛とした、やはりお綺麗な方です。今なにをしているのか、今日はどうしてここにいるのか。彼女の柔らかい声を聞くうちに、わたしの頭の中は彼女と過ごした短い思い出でいっぱいになりました。不思議なもので、あなたのことなんかどうでもよく思いました。あなたの横にこの女性がいると想像しても、常に胸の奥に転がっていた硬い岩石のような感情は生まれませんでした。数週間前に起きたあなたとの思い出も甘いものに感じませんでした。わたしは彼女と違うのです。わたしが彼女になれないように、彼女もわたしにはなれません。あなたは天秤にかけたかもしれないけれど、私たちは違う土壌にいる人間だと、あの数分でわたしははっきりと気付きました。どうぞお好きなようにしてください。今のわたしからは彼女を羨む気持ちは消えました。あなた方をわざとらしく敬う気もさらさらございません。なぜなら私と彼女は別の生き物だからです。あなたに追いかけてもらいたくて買ったお洋服も、わたしには必要なさそうです。あなたの中に映るわたしは、もうあなたが欲しいわたしじゃないのです。

家を磨く

今日も丸一日お家にいました。蝉の騒がしさで目が覚め、昼食はロールパン4口程。テレビを点けると再来年のこの国について、安っぽいスーツを着たおじさんおばさんが、薄っぺらい言葉をズラズラと勝手に喋っておりました。真剣な面持ちで意見を述べたかと思えば、次の瞬間には犬猫の動画を見て笑い声が溢れかえる。一分もしない間にコロコロと空気が変わっていく頭の悪さに、私はブツンと電源を叩きました。洗面所に行くと湿った洗濯物が積まれています。きっと母が急いで回したものです。濡れた衣服から漂うのは鼻を刺すようなキツい水っけでした。これまでなら「なんで私ばかり」と愚痴を吐き捨て、嫌に足音を大きく立て、ベランダに持って行きますが、今の私は違います。「仕方ない」とも思いません。これが今の私の仕事なのです。強すぎる日差しに嫌な顔ひとつ向けません。私の仕事はこの家を綺麗にするだけです。昨日も同じことをしたのに、床には大量の髪の毛が落ちています。私はそれを「なぜだ」と感じることはありません。一本も残さぬよう、角の角まで丁寧に吸い取りました。ついでに汚れてきた机や壁も、重曹水を使い、念入りに拭き上げました。くたびれた家族が帰ってきても、今朝より美しくなった家に気付く者はおりません。それでも私は、毎日、この家を磨いています。ちょっとでも綺麗にすれば、少しずつ良いことが起きるかもしれない。そんな根もない呪いに期待を寄せています。毎日、丹念にこの家と向き合えば、同じくらい私を受け入れてくれるものが現れるかもしれない。空っぽでおぞましい希望かもしれません。もしかしたら、誰も、何も私に気づかないかもしれない。恐ろしい気持ちもございます。それでも私は、このくすんだ家から抜け出すいつかを求めて、今はただ磨くのです。

生きもの

「これはどうしたらいいですか」自分の考えで足りるようなつまらない質問で、あなたとの会話を始める。あなたは相変わらずのムスッと結んだ口と尖った眼で私を一瞥する。ああ、面倒くさいと思われた。その冷たくて硬い一瞬で、わたしの心はこの床を突き抜け、地の底まで落ちてしまうんだ。「こうしてください」と口先で足りることを、私の左側にジワリと寄り添い、あなたは声を使わず、指先で教えてくれる。私が一番欲しい答えをあなたは最初から分かっている。声をかけてからたった数秒で、私は谷底に転げ落ち、深い切り傷を残したかと思えば、山のてっぺんに登りつめ、肺を震わせ瑞々しい酸素を味わうこともできる。左側からジワリと伝わる生温かさを逃したくない。些細な欲望が私の人差し指に伝わり、指はあなたの手の甲に乗っかった。「まだ早い」とあなたの手はゆっくりと、撫でるように私の指から離れていく。しくった。もう触れられないかもしれない。失敗した私の指は、戸惑いを隠すようにゆっくりと違う場所に置かれる。こうなることを分かっていて、この場所に連れ込んだかのように、今度はあなたから手首の裏を重ねてきた。トカゲの腹ように冷たく、滑らかだった。それは人間の形をした生き物だった。わたしはこの生き物に捕らえられた虫だ。虫はあくまで冷静に、自分の命を守るため、その罠からさらに遠くへ逃げた。生き物はあっさり、追いかけてこなかった。どうせ死ぬんなら、あのまま食われるのがよかった。あのままペロリと呑み込まれてしまいたかった。こうして虫はもう何日も、生き物の罠に、自ら足をかける暮らしをしている。生き物が本当に殺してくれるかも分からないのに。

二次会

グラスが積まれたテーブルの向こうの顔が赤く膨れたみんなに、わたしを食べてもらう。長らく漬け込んでいた、ほんとうの私をザクッと切り取って、食べてもらう。こんな辱め、だれが好んでくれようか。お酒につられて、荒く盛り付けたわたしの一部を、みんなが大口を開けてパクパク食べてくれた。おまけに「美味い」とまで言ってくれた。わたしの奥で保存していた断片はみんなの中に消えちゃったけど、わたしはいま、とても気持ちがいい。