ユキユキと呼ばれています。

祝成人。奥が深い人間になりたいです。

プライドとかエゴとか捨てちゃえば楽なのに

 

ここ一番のとき、今まで「自分ならできる!」とか「私なら大丈夫!」みたいな呪い言葉を何回も唱えて挑んでいたけど、そういえばその言葉一つで上手く行った試しは一回もない。

結局そういう言葉ってただの麻酔でしかないんだ。

真に受けて何回も何回も唱えていると「私はできる人」というプライドが出来てしまう。

本当は「できない」ことだって分かってるのに、見ようともしなくなる。

いつか人から「できない」と指摘されたときに恥ずかしくなってやる気も消える。

結局、自分が逃げた結果でしかないのにね。

プライドとかエゴとか捨てて「一生下積み」でいよう。

どんなに人に自分のことを蔑まれても傷ついて落ち込まなくてすむ。

自分ができないこともポジティブに受け入れることができる。

でも何か言われてもできないことがあっても「なにくそ」と思って挑む力は忘れちゃいかんね。

それこそ「一生下積み」精神だ。

食べたい寝たい遊びたいという純粋な欲にポジティブでありたい

 

私はご飯が大好きである。

 

昼ごはんを食べながら夜ごはんのことを考えているし、最後の三口くらいになって「あゝ、あと少しでごはんが無くなる」ととんでもなくエモい気持ちになってしまう。

 

美味しいごはんは体を作るのと同時に心も満たしてくれる。

味の薄いごはんを食べると舌が萎えちゃって、箸を持つ力さえ奪われる。

美味しいごはんには一定の「豊かさ」が必要なのだ。

ちょうどいい味、食感、風味、見た目…食の豊かさを満たしていないと「美味しいごはん」と呼んでよいのか分からない。

食べログによくいるカフェハシゴが得意なトップユーザーでもない人間がこんなに熱く語ってどうしたんだよって感じだけど、きっとミシュランの人もこの考えに首をブンブン縦に振ってくれるだろう。

 

美味しいごはん、つまり、豊かな食はそれなりにお金が無いと体験できない。

100円ローソンで買った鯖缶とつくねと、サトウのご飯。それだけで十分かもしれない。だけど心は満たされるのか?

1300円払ってロイホの温か〜いほろほろビーフカレーを食べるのとは全然違う。ましてや数千円出して食べるフレンチコースはきっと格別だ。

なに言ってんだよ、阿佐ヶ谷のやっすい居酒屋は最高だよ!という人も居るでしょう。でもその豊かさは「人」で埋められているはずだ。

居酒屋の豊かさは安くてうまいご飯よりも、美味しいお酒と楽しい人たちとの時間だ。まぁどちらにせよ、そういう居酒屋でも、さすがに300円払って帰らせてくれるわけがない。

「豊かさ」を求めるためにはそれなりに対価が伴うものだ。

 

映画だって、美術鑑賞だってそうだ。

今はネットでフリーで色んなもの見れるけど、知見の豊かさを深めるためには結局お金が必要だ。教育、とかね。

あとメンタルの豊かさを養うための娯楽にもお金は伴う。ひょっとすると娯楽は一番お金が必要かもしれない。

 

寝たいっていうのはタダだね。西川ふとんで寝たいという欲がない限りは。

でも寝たいっていうのは「時間」の豊かさが必要だ。仮に今、のんびり過ごせる時間が十分にあれば「寝たい」なんて頻繁に口にしないでしょう。

 

要するに何かしらの欲を叶えるためには「豊かさ」が必要なわけで。

でもその豊かさが無いからって、純粋な欲を諦めることはしたくないなって常々思う。

ましては純粋な欲を口にしないでいることなんて、そんな苦しいことしたくない。

コンビニのたらこおにぎりを食べた後に「あ〜築地の海鮮丼食べたい」って言って「え今食べてたじゃん…」とか言われたくない。

その豊かさが叶えられるかはともかく、心でその豊かさを追い求めることを辞めたら、とんでもなく悲壮感に溢れた生活しか待ってないと思うんだよ。

生活全体のバランスを計算してケチケチになることは良いことだけど、心までケチケチになったら味のないうっす〜〜い毎日になってしまう。

 

だからいくつになっても、純粋な欲望をポジティブに受け入れて、その欲望を楽しんでいたいな、と思うのである。

パワポは空間を支配するコンテンツの一種だよね

 

もうすぐゼミの研究発表会がある。

この一年ゼミでどんなことを研究したのか、大人数いる学科の人たちの前で発表するのである。

 

だいたいこういう準備はあんまりやりたくない人の方が多い。

だから結局、いつも「誰もやらないなら私やるよ…」みたいなスタンスでパワポを作り始めるのだが、本心は「みんな作らないのね!ありがとう!絶対良いもん作るから任せて!」である。

 

まるで下請け会社のような根性だが、これを見て相手は理解してくれるだろうか、ここは省いた方が良いのか、見やすい図はどうしたら良いだろうか…と考えるのがめちゃくちゃ楽しい。

 

要するに、パワポ制作は映画制作と一緒だと思う。

パワポをプロジェクターを通した映像と考えたとき、そこには観客と映像の一対一の関係性ができるし、観客は情報を得るために映像に注目することから、映像はその場を支配していることになる。

だから映像も情報を適切に届きやすいように編集すべき必要がある。そしてパワポの中の色味や図、字体は、映画でいうショットだったりモンタージュだったりする。情報の雰囲気を感覚的に伝えるツールである。

 

だから、パワポと映画はよく似ている。

ゼミで検証映像しか映画と呼べるものを使ったことない私でも、映画に似た制作体験がプレゼンで得られると思うと、お得でしかない。

だから楽しくて楽しくて仕方ないのである。

 

そんーなこだわっちゃって、コスパ悪いなぁ、と思われるだろう。多分社会人になってこんな執拗にパワポ作るのに時間割けない。

でも何年たっても、徹夜してでも意気込んでウンウン悩みながら作ってるんだろうなぁ…と予測できる。人間そんなヒョロッと変われるもんじゃないし。上司から見たら「こいつ仕事出来ないな」とか思われちゃうんだろうなぁ。

 

ま、無駄な過労を自分で作るのはアホなので、アホでヘマかかないようにこだわれよ、と過去の自分から忠告しておこう。

マネークリップと小銭袋を持ってる人が異常にイケてるように思える

 

現金が大嫌いである。

 

理由一、汚い。

理由二、そういう汚いのをジャラジャラ触りたくない。

理由三、いちいち残額を数えるのがめんどくさい。

 

三番目は特に嫌である。

仮に日曜日が最後にお金を使った日であったとして、火曜日にお財布開く際、いちいち何円あるっけ?と確認しなきゃいけないのである。

 

ZARAに行って買い物しようと思っても残額確認のためいちいち財布を開く必要があるのである。

他者から見たらあからさまに金欠感漂っている人じゃないか。めちゃんこ嫌である。

 

多分、いや、これは恥ずかしいことだけど、物理的な物を数える力が衰えているのかもしれない。

ネットの世界に慣れすぎてお金も数字じゃないとしっくりこない。

これだからミレニアル世代は…とか日経愛読してる人に呟かれそうである。自分をミレニアル世代と位置付けるのもちょっとイキってる感あるけどさ。

 

そんな時にこそカードが必要なんだよ!とカード会社が食いつきそうなネタである。

私もクレジットカードとデビットカード、どちらも持っている。

 

が、

 

デビットカードApple Payとして使えると希望を抱いて作ったのに結局「このカードは使えません」で、だったらパスモで十分だわ…と財布で眠らせたままだし、クレジットカードに関しては、楽チンが故にバンバン擦りまくった結果、苦しいことになったので怖くてあまり使いたくない。

クレジットカードは私みたいな即決タイムイズマネー資質の人間には危ないツールである。アマゾンだったらボタンポチで買えてしまうし。

 

あれだけ現金ムリ!と豪語していたけど、早く現金感覚を取り戻さないと、このままじゃ請求に支配されたとんでもない未来が待っているに違いない…

 

現金ギライ、特に理由三に立ち向かえるアイテムは一体……?

 

ウンウン考え抜いた結果、豚の貯金箱と小銭袋、マネークリップに辿り着いたのである。

 

豚の貯金箱には余分なお金(端数になるお金たち。五円玉6個もいらんだろう。)を入れ小銭袋はスッキリさせる。

そしてマネークリップで札束管理。

 

どうよ、この身軽さ。

 

大学祝いで奮発して買った長財布も三年後、こんなしょうもない悩みで手放されるとは夢にも思っていなかっただろう。

最初は清々しい気持ちになったが、引き出しにポツンとしまわれた財布が悲しそうに見える。

買って三年。まだ引退するのには可哀想か…ということで財布さんには簡易ATMになってもらった。

 引き出した一定のお金を管理してもらっている。そしてあまり触りたくないクレジットカードもひっそり眠ってもらってる。

急な出費が来た時はとりあえずデビットカードに頼れば良い。

 

最近はもっぱら外出が楽しい。

手持ち金がないので無駄遣いも無いしルンルンである。

 

次第に自分、イケてね?とか思い始めた。

そして思い始めた同時期にマネークリップ持ってるブルータス系ピーポーがポンポン現れ始めた。

私もついにブルータス系ピーポーの一員になれたようなので、次は質の良い小銭袋を自分に買ってやりたい。とりあえずカード請求が落ち着いたらね…

 

 

どうしてこんなに映像が好きなのか、書きながら自分の人生探ってみる

 

よく初対面の人に「ツイッタで知ってます!」「ああ、インスタの!」と言われる。

両方ともフォロワーはたったの100何人で、エセ・インフルエンサーにもほどあるが、なぜか私本体よりも私のSNSの方が巷で知られているみたいだ。

自分の好きなことを人のタイムラインを埋め潰す勢いで発信しているからか、「ヤバイヤツ」の印象が拡がっているのかもしれない。

 

まぁ、確かに自分の投稿を振り返って読んでみても、イタいくらい好きなことしか書いてない。

私の好きなこと、それは映画を含む映像作品、音楽、写真、である。

特に映像作品に関してはツイッターに書き込まなくてもずっと考えてる。

電車の広告映像で音がないのは映像としての役割をどう増減させてるのだろうか、とか、テレビを見てても「なんでこここのショットなんだ?」とツッコみ、その疑問を家族に投げかけても最近じゃ「ハァまたか」という顔して誰も相手にしてくれない。

ゼミも結局、映像研究するゼミに所属してるし、研究が楽しすぎて教授にも異質な扱いを受けている。(もちろん良い意味で)(と信じたい)

映像が好きすぎて、最近はインスタのストーリー投稿でモンタージュ技法を用いてゴダールみたいな映像作る、みたいなことして楽しんでいる次第である。

 

もはや映像が体内の一部になっている状態だが、その原点は一体どこなんだろうか。就活の自己分析とやらをやってくうちにこのミステリーにぶち当たった。

 

決定的な始まりは幼稚園の頃の映画館通いだろう。

4、5歳の私は都内の幼稚園に通っていて、そこから車で10分くらいの所に大きい映画館があった。しかもその映画館は都内でも人気で、平日昼間でもちっこいガキンチョが押しつぶされそうになるくらい人がいっぱい居た。

私の母親はシネフィルと呼べるほど映画に詳しくはない。その代わり人が集まるところが大好きな人だ。だからその空気感を娘にも触れさせたくて連れてったんだろうけど、私はほとんどバターたっぷりのポップコーンに釣られて行ってたようなもんである。

だから四、五歳の頃に一目見て「映像ってヤバイ!」となったわけじゃないのである。

その代わり、母に連れ回されたおかげもあって、人が集まって一緒に興奮・感動する熱気を肌で体感し、どこで人が息を飲むのか敏感に察知できるようになったと思う。

 

決定的に映像ヤバイ!と圧倒されたのは、高校1年の時だ。郊外の映画館に行ったときである。バズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』を観に行った。

馴染みの映画館と比べて客数は少なく、場内の熱気みたいなものも感じることは難しかった。

しかし、映像・音の熱気にガツンと一発やられたのだ。

豪華絢爛、破天荒な描き方をするバズ・ラーマン作品だからというのも1つの要因にもなるが、確かに映像と音が私を呑み込むような感覚を覚えた。吸い込まれるように前のめりで観てしまったし、「とんでもない経験をしてしまった!」という興奮でムズムズしたまま映画を観続けていた。

 

ここが今の映像ナードに至る最初だろう。

あの時の観客を吸い込むような映像の秘密は何だったのか、ただひたすら色んな作品を観て今もその答えを探している。

が、まぁそう簡単に見つかるものではないし、答えは1つなんかじゃなくて無数にあることだって十分分かった。

それが分かったからこそ、これからは自らの手で色んなモノを作って、観客を呑み込む実践をしたいのだ。

あの時の私みたいに観客が鼻息荒くしてのめり込めるような、現実世界とは全く違った、心がワクワクするような世界を創り出したい。

そしてそれは日本だけじゃなく、世界の人たちがワクワクするものであれば良いなと思う。

だってワクワクするものがあれば世界の景色だって薄緑だったのが、ビビッドグリーンになるはずだ。

そうやって「わたしもいつか社会の心を豊かにしたいな」と映画を観るたび、作品に触れるたびしみじみしてしまう。

 

……なんか、自己分析の手助けで書いたはずがエモくなっている。

でも、そう、わたしがやりたいのは何かしらの形で人が興奮するような世界を創ることなのだ。

こういうエモい文章をわざわざ公開することによって自分の士気を奮い立たせ続けようという、マゾな発想で書き始めたといっても過言ではないが、ちょっと恥ずかしいな…次この日記を見るときは精神的にヤられた時かな。

キャワイイ女子大生のトラップなどに負けないでほしい。

 

昨晩、終電ギリギリの私鉄でのこと。

 

相当飲んできたであろう女子大生4人組がまともに歩けないほどの千鳥足で乗車。

案の定、電車が動くたびに全員でゴロゴロふらつき、他の乗客をことごとく体当たりアタック。

横のサラリーマン、推定40代後半、指輪がないため多分未婚。この暑さと疲労、加えて酔っ払った乗客からのひっきりなしのタックルにもうブチギレ寸前。

 

サラリーマンが凄まじい形相でゆっくりと後ろに振り向き、これは一喝入れてくれるか、と周辺乗客が期待を寄せたその時。

 

女子大生「はあッ…ごめんなはい…!」

 

完璧呂律が回っていないアヘ声とも呼べるその一声に相当ヤられてしまったのか、彼は一瞬で彼女たちを宥めるような目つきになり、ウンともスンとも言わず逃げるように降りて行ったのだった。

 

目の前の席でその彼の姿を見ていた私は非常に虚しくなった。

なぜなら威厳の塊もなかったから……。

 

フリフリスカートにごっつい厚底ソールの靴を履いた、いかにもミルクティー飲んでます系女子大生にいくら「ごめんなはい」とアヘ声で言われても、頑張ってそこは「ウザいおじさん」を通して欲しかった。

 

彼女たちは明らかに他の乗客にとってみれば超絶迷惑な人たちであり、彼女たちがいくら可愛かろうとそんなことはどうでも良い。てか、むしろそんな行為を見て可愛さは半減するものだろう。

 

だけど彼は一瞬にして、彼女の見た目とアヘ声(確かに完璧アウトのアヘ声であったけれども)にヤラれて「社会的なサラリーマン」の威厳が消え、「男性としての性」が勝ってしまった。

 

同じ同年代として言わせて貰えば、そんなヤバめのアヘ声出せば、大体の男性は黙ることくらい皆んな理解してる。

だからこそそんな分かりきったトラップにハマって、ニンマリ宥めるような目つきになって欲しくなかった。

 

それは彼だけだろ!俺はちゃんと怒るぞ!と思うかもしれないけど、この状況じゃないだけできっと皆んなこのトラップにハマっている or ハマるだろう。

 

キャワイイ女子大生というブランドに取り乱されることなく、人間としての本質を見て欲しいものである。

 

そんなこと考えてる間も彼女達はエアホッケー並みにあちこち当たりまくり、他の乗客はきっと彼を憎んでいるのでありました。

 

短編映画『そうして私たちはプールに金魚を、』感想は聞かなくて良いからとりあえず観てください

 

『そうして私たちはプールに金魚を、』をまさかVimeoで観れるなんて…!

vimeo.com

 

とりあえず観てください。

感想とか探せばいくらだってあるけど、どうでも良いからとりあえず観てください。

映像演出がサブカルくさいとか言ってないで、とりあえず観てください。

好き嫌い関係なく、とりあえず観るべき作品なんです…。

 

短編っていうのもまたズルい。

短編だからこそ感想とか理屈とか聞きたくないもん。

あ〜久々にヤバいもん観たなってゾワゾワしてます。