不快感で満ち溢れている

フィクションかもしれません

カラダを解放した夜

2週間前から不眠症に悩まされていた私は、病院の先生に「身体にエネルギーが溜まっているからでは」と思わぬ診断を受けました。確かに、終始動いていないと居心地悪く感じていた私が、最近は家から出るのも珍しいほど、ゆったりした生活を送っていたような気がします。そこで内側に有り余ったエネルギーを発散するため、半日、ちょっとした旅に出ることにしました。
その旅は金曜夕方のジムから始まりました。久しぶりに筋肉の隅々まで意識し、最初はきつかったのですが、次第に高校以来閉まっていたスポ根魂に火がつき、気付けば5時間身体を動かし続けていました。夜風に当たりながらストレッチをしていると、急に視界がハッキリと澄んで、ビルの明かりがギラギラと眩しく見えたのを覚えています。備え付けの岩盤浴で更に汗を流し、ジムを出た時には完全に身体が違うものへと変わった感覚がしました。
その名の通り、身体が「覚醒」した私は、軽くなった足取りで好きなアーティストが出演するライブへ向かいました。1人で行ったので後方からこっそり音に揺られるつもりでしたが、身体をもっと使いたい、という欲に負け、気付けばスピーカーの目の前に居ました。エレクトロの重圧が骨や内臓の奥を震わせ、自分の身体の存在を実感できたことにものすごく興奮しました。ビートに合わせて皆んなが踊り、ジメジメした他人の身体がぶつかってくることも心地よく感じたほどです。
この高揚感を引きずったまま家に帰るのも惜しくなり、その後は思いつきで近くのクラブへ向かいました。不気味なハウスミュージックが流れ、人の残像しか分からないほど濃いスモークと、何色もの過剰なレーザーが、私の感覚を完全にトリップさせました。スーツ姿の女性が両手を広げ、天を仰ぐように踊っていたり、ドレッドヘアーの男性が異常な身体の動かし方をしていたり、それまで見た事の無い鮮烈な光景にきっと私の顔はニヤニヤしていたのだと思います。近くに居た外国人が私を見て「ダンス!」と叫び、彼に引っ張られ私は身真似で踊り始めました。混沌としたあの空気の一部になったことに快感を覚え、次第に彼の存在も忘れてしまうほど踊り狂ってしまいました。
朝5時の渋谷は朝まで飲んで、くたびれた人たちで溢れていましたが、私は初夏の太陽の日差しを気持ちいいと感じるほど、身体の底からみなぎってくる清々しさを味わいました。帰宅すると久しぶりに布団でゆっくり深く眠ることもできました。今でもあの夜は本当にあったのかと疑ってしまうほど、まるで幻覚のような半日でしたが、普段詰まっていたカラダのネジを外し、全く違う世界を感じることができて、とても嬉しかったのです。

私たちはどこへ向かうのですか

60パーセントのあなたで十分なのに、ゆっくりと、しかし濃い密度で1パーセントずつ満ちていく。それまで残像しか捉えられなかったあなたの美しい顔を見つめられるようになりました。あなたがずっと隠していた気持ちにも、触れられるようになりました。でもお願いです、裏切らないで。この理想はいつ崩れるか分からない。喜びよりも緊張で胸がもたない。このまま時間に身を任せたら、着々と100まで空いたマスが埋まっていくだろうに、私たちは絶対に全てを埋めようとしない。埋めきってしまったとき、私たちに何が残っているのだろう。きっとこれも、不安を見えなくするための娯楽なんだろうか。一時的な快楽を求めて、一年後には忘れるような繋がりなのでしょうか。夏のおかげで隠れていた白い皮膚が露わになる。真っ赤になるほど強く握りしめたいけど、100まで埋めずに触るに至れない。つまらない。もう分かっているなら、躊躇ってないで捕まえにこいよ。後から好きなだけ悔やめばいいよ。このまま生温かくて気持ちいい、ゆるい波に揺られ浮いているだけなんて、気付いたら遠くに流されてただなんて、ものすごく、悲しいじゃん。

渋谷から逃げらんない

相変わらずだらしない街だよ。邪魔くさい熱気だよ。ツタヤの前は運命を求める人間ばかり。我こそが今宵の主役とエッジィな服が並ぶけど、抜けない顔のあどけなさ、水っけのない黄土色の髪の毛ばかりよ。いつまでたってもバブルの余韻が抜けない土壌。権力で育ってきた街、ここに居座るものは無知で従順な民だな。幼稚園の帰り、母親の手を握りしめて通った道玄坂。遠くから来た祖母の腕を引っぱり歩き回った公園通り。教師と警官の目をすり抜け、制服であぐらをかいてた宮下公園。この街のコンクリートを何回踏んだことか。むき出しのエゴで溢れたこの街しかわたしは知らない。地下鉄に乗って新しい庭を作りに行けばいいのに、結局いつもここに来てしまう。どうしようもなくやってられないときは、明治通りで信号を待つ人間に抱きつきたくなる。円山町らへんの猥雑な雑踏にもまれたくなる。思い出なんか作ろうとしなくても生まれてしまうこの街で、一生さ迷い続けるのか。自分のだらしなさを知らぬ人間に重ねることしかできないのか。わたしはどうしようもなく哀れな人間です。

梅雨の23時はやみつきだよ

梅雨の23時はやみつきになりそう。日中降りしきった雨のせいで、いつものクソつまんない光景も、やけにドキドキしちゃうんだ。誰もいない路地で光る赤と青と黄色、濡れた路面に反射して隣のアパートの窓も三色に染まる。あの部屋の住人よ、公共が作り出すこんなにも妖しい夜を、どうぞ贅沢に使ってください。歩道に生まれた無数の水溜りは、底が見えぬほど漆黒で、足を入れたらそのまま呑まれて帰れなくなりそう。蒸されたコンクリートの臭いに吐き気がする。こんなときほど、あの人の着ていたシャツの香りで鼻をいっぱいにしたい。甘ったるくて、でも鼻を刺すようなきつさはなくて。あの人の近くを通るとき、いつも音を立てないように静かに、ゆっくり、大きく空気を吸い込んでいたかいがあったから、あの匂いを何度も再現することが可能なのだよ、わたしは。汗ばむ首の皮膚は、湿ったコットンを掻きむしったときみたいにか弱くなっている。あの匂いを必然的に思い出せるように、あえて窓は全開に、風呂上がりにワインを流し込む。隣にだれか居てくれるのが今晩の正解でしょうけど、わたしはひとり、鼻の記憶を頼りに留めておいた幸せを噛みしめるだけで十分よ。三杯飲んだところで体が床に溶けていく。いや、やっぱり、あの人が隣にいて欲しいな。

きもちいい関係

すごく楽しいけど、とてもクタクタになるわ。わたしが気を使い過ぎているだけかしら。頰の筋肉に新しい筋が生まれて、皮膚は慣れずにジリジリ痛むほど笑ったし、やっぱりあなたはわたしが求めてるものをくれる。あなたを通してわたしの中身はまだ死んでないって気づけるの。とても気持ちがよくて、この感覚を瓶に詰めて、夜寝る前にまた味わいたいと思うくらい。あなたが今どこに居るのか推理して、本当にそこに居ると血が熱くなるのが分かるの。わたしのことも、ちゃんと見つけてね。もっと一緒にいたいでしょう。わたしたちについて、なにも聞くことはないはずよ。あなたの誕生日も、過去の話もいらない。あなたの好きなものも、ハマってることも別に知りたくない。ただわたしの近くに寄ってきて、明日には覚えていないような話をして欲しいの。なにを話そうと、わたしは必ず笑ってあげるわ。わたしの心を満たすために、あなたの見たこと感じたことを、その皮肉っぽい口調で話してちょうだい。あなたと同じものを見ていると思うだけで、わたしはまだこの世界にいると分かって気持ちいいの。これ以上のこと、別になにも望んでいないって、お互いわきまえているでしょう。

『さるかに合戦』

お世辞にもうまそうとは思えない泥だらけのおむすびを、そっと腕に抱える蟹の姿に、ぼくは思わず目を背けた。日光が反射し杏色になった甲羅と、今にも折れそうな細い腕をこのまま見つめたらおかしくなってしまう。仕方なくおむすびに目をやるものの、子供と食べるの、と普段より高い蟹の声に、ぼくの胸はきつくなった。「この種と交換だ」この居心地の悪さから抜け出したくて強引におむすびを取り上げた。悪くない、と微笑む蟹を、ぼくはもう、昔みたいに見ることが出来なかった。それから蟹はぼくの渡した柿の種を大事に育てた。皆がぼくを嫌っても警戒することなく迎え入れてくれる、蟹の優しさが好きだった。しかし同時に、誰にでもその優しさを与えることに腹立たしく思ったんだ。蟹が丁寧に育てた、真っ赤に熟れた柿まで憎たらしかった。この苦しさに気づいて欲しくて、木の上からまだ青い柿を力いっぱい投げ捨てた。興奮で滲んだ目を拭い見えたものは、もげて遠くへ飛ばされた蟹の腕だった。

彼がいなかった時間

ホームで気が抜けたように横たわる人。彼の腹はカエルの喉のように大きくゆっくり膨らみ、またしぼむ。特急の到着と共に押し寄せる風が、一番下のボタンが取れた彼のシャツを波打たせる。車両に閉じ込められた何百人の人が解放され、彼の姿に目を奪われる。人間の目は正直で、野生の動物に出会ったかのように輝かせているのに、それ以外の体は社会の一部だ。ある足はエスカレーターへ向かい、また他の足は乗り継ぎのホームで立ち止まる。1人くらい、スマホを構えて彼の姿をネタにする倫理のない人間が現れても良さそうなのに、彼と同様、動物になろうとする者はいなかった。みんな、彼に出会い、何を感じるのだろう。「情けねえ」と野生の恥ずかしさを嘆くのか、「ワロタ」と彼という人間性を嘲笑うのか。それとも「分かる」と、同じ野生を隠して生きる都会の人間として、無言の共感を抱いているのか。あの日、ホームで彼に出会った何百人の数秒が、彼のことで埋め尽くされた。しかし、彼にはあの何百人について考える時間が存在しない。あの日のあの時間、彼はこの世界にいなかった。わたしが冷房の効いた車両から彼の姿がどんどん小さくなるまで見つめていたことさえ、彼は知らないんだ。