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映画って奥が深いんだよ!

映画『ムーンライト』が映し出すLGBTの「今」

 

本国アメリカでは25億円もの興行収入を得ているものの、日本では残念ながら「オスカーで『ラ・ラ・ランド』に間違われてしまった作品」として知られる『ムーンライト』。

黒人社会、同性愛、薬物中毒……

確かに日本で取り扱うには馴染みのない設定ばかりの映画である。

ラ・ラ・ランド』に間違えられた作品と紹介されても仕方ないのか。

 

しかしこれだけマイノリティの要素が含まれた映画であるのに、作品からマイノリティであるが故の苦しみや葛藤は全く感じられない。

 第3章で”あの夜”のことを遠回しに避けながらもお互いの気持ちを探っていく姿は、同性であることは関係なく、純粋に愛を確かめる二人の人間の姿として見ることができる。

 

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LGBTを描いた映画は沢山あるが、時代によって描かれ方が大きく変わってきているように思える。

20世紀ごろは、ヒッチコックの『ロープ』(1948)やヴィコンシティの『ベニスに死す』(1977)のように、同性愛は映画内のキャラクター設定、(言い方は良くないが)娯楽の要素として描かれてきた。つまり、同性愛がリアリティのないものとして描かれていることが多かったのだ。

LGBT当事者が居たとはいえ、簡単に公表できない時代柄であり、人々は「あの人はそうかも」なんてコソコソ言ってた窮屈な時代だ。「こんな人たちが居てさぁ」という映画に興味を持ってもらう導入要素の方が強く、等身大のLGBTが描かれることは少なかった。

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21世紀に入ると、それまでの同性愛者らによる権利運動が根付いてきたこともあり、「同性愛である自我」と「社会、あるいは家族」とのジレンマが描かれるようになった。

ブロークバック・マウンテン』(2005)では家族や身近な人とのすれ違いから自分は何者かが描かれているし、『ミルク』(2008)ではゲイの人物が社会での人権を得るために戦っていく姿が描かれている。

社会がちょっとずつLGBTに対して関心を持ち始めたことから、映画はLGBTをより社会的な「実在するもの」として描くようになったのだ。

 

しかし2012年を境にLGBT映画はまた違う方向に成熟し始めたように思える。

それは天才・ドラン監督の台頭とも強く関係しているかもしれない。

『わたしはロランス』(2012)を初めて観たとき、「こんな切り口あるのか!」と目が覚めるような衝撃があった。ストーリーも映像も斬新な作品だが、それ以上に同性愛が「普通」のこととして、むしろただの「条件」として描かれていたことに驚いた。

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この時から映画はLGBTを、より感情的でパーソナルな、全ての人間が共感せざるを得ない「普遍的な愛」として描き始めた。

翌年の『アデル、ブルーは熱い色』(2013)も愛の始まりから終わりまで、人間の本能を剥き出しに描いているし、『キャロル』(2015)も時代設定としては犯罪として描かれるはずの同性愛を、よりパーソナルな二人の感情の揺れ動きを中心に描いている。

面白いことに社会背景と重ねて見ると、ちょうどこの時期にフランスで同性結婚が合法になったり、アメリカ最高裁が両性での結婚防衛法を違憲と見なしたりと、社会がLGBTを認め、普通のこととして受け入れ始めているのだ。

 

今回の『ムーンライト』は黒人で同性愛者という、マイノリティ過ぎてなかなか描くことのなかった設定を、普遍的なラブストーリーとして描いている。

これはもう「マイノリティ」という言葉をかき消すくらいのメッセージがあるんじゃないかと思う。

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先日、台湾ではアジアで初めて同性婚が認められたばかり。

LGBTは少しずつマイノリティからマジョリティになってきているのは確かであり、よっぽどの分断がない限り、これから更に理解が進んでいくと思う。

www.huffingtonpost.jp

完全にLGBTがマジョリティになったとき、映画はどういう描き方をしていくのか、LGBT社会はどう映画に反映されていくのか、その変動が非常に楽しみである。