ユキユキと呼ばれています。

祝成人。奥が深い人間になりたいです。

どうしてこんなに映像が好きなのか、書きながら自分の人生探ってみる

 

よく初対面の人に「ツイッタで知ってます!」「ああ、インスタの!」と言われる。

両方ともフォロワーはたったの100何人で、エセ・インフルエンサーにもほどあるが、なぜか私本体よりも私のSNSの方が巷で知られているみたいだ。

自分の好きなことを人のタイムラインを埋め潰す勢いで発信しているからか、「ヤバイヤツ」の印象が拡がっているのかもしれない。

 

まぁ、確かに自分の投稿を振り返って読んでみても、イタいくらい好きなことしか書いてない。

私の好きなこと、それは映画を含む映像作品、音楽、写真、である。

特に映像作品に関してはツイッターに書き込まなくてもずっと考えてる。

電車の広告映像で音がないのは映像としての役割をどう増減させてるのだろうか、とか、テレビを見てても「なんでこここのショットなんだ?」とツッコみ、その疑問を家族に投げかけても最近じゃ「ハァまたか」という顔して誰も相手にしてくれない。

ゼミも結局、映像研究するゼミに所属してるし、研究が楽しすぎて教授にも異質な扱いを受けている。(もちろん良い意味で)(と信じたい)

映像が好きすぎて、最近はインスタのストーリー投稿でモンタージュ技法を用いてゴダールみたいな映像作る、みたいなことして楽しんでいる次第である。

 

もはや映像が体内の一部になっている状態だが、その原点は一体どこなんだろうか。就活の自己分析とやらをやってくうちにこのミステリーにぶち当たった。

 

決定的な始まりは幼稚園の頃の映画館通いだろう。

4、5歳の私は都内の幼稚園に通っていて、そこから車で10分くらいの所に大きい映画館があった。しかもその映画館は都内でも人気で、平日昼間でもちっこいガキンチョが押しつぶされそうになるくらい人がいっぱい居た。

私の母親はシネフィルと呼べるほど映画に詳しくはない。その代わり人が集まるところが大好きな人だ。だからその空気感を娘にも触れさせたくて連れてったんだろうけど、私はほとんどバターたっぷりのポップコーンに釣られて行ってたようなもんである。

だから四、五歳の頃に一目見て「映像ってヤバイ!」となったわけじゃないのである。

その代わり、母に連れ回されたおかげもあって、人が集まって一緒に興奮・感動する熱気を肌で体感し、どこで人が息を飲むのか敏感に察知できるようになったと思う。

 

決定的に映像ヤバイ!と圧倒されたのは、高校1年の時だ。郊外の映画館に行ったときである。バズ・ラーマン監督の『華麗なるギャツビー』を観に行った。

馴染みの映画館と比べて客数は少なく、場内の熱気みたいなものも感じることは難しかった。

しかし、映像・音の熱気にガツンと一発やられたのだ。

豪華絢爛、破天荒な描き方をするバズ・ラーマン作品だからというのも1つの要因にもなるが、確かに映像と音が私を呑み込むような感覚を覚えた。吸い込まれるように前のめりで観てしまったし、「とんでもない経験をしてしまった!」という興奮でムズムズしたまま映画を観続けていた。

 

ここが今の映像ナードに至る最初だろう。

あの時の観客を吸い込むような映像の秘密は何だったのか、ただひたすら色んな作品を観て今もその答えを探している。

が、まぁそう簡単に見つかるものではないし、答えは1つなんかじゃなくて無数にあることだって十分分かった。

それが分かったからこそ、これからは自らの手で色んなモノを作って、観客を呑み込む実践をしたいのだ。

あの時の私みたいに観客が鼻息荒くしてのめり込めるような、現実世界とは全く違った、心がワクワクするような世界を創り出したい。

そしてそれは日本だけじゃなく、世界の人たちがワクワクするものであれば良いなと思う。

だってワクワクするものがあれば世界の景色だって薄緑だったのが、ビビッドグリーンになるはずだ。

そうやって「わたしもいつか社会の心を豊かにしたいな」と映画を観るたび、作品に触れるたびしみじみしてしまう。

 

……なんか、自己分析の手助けで書いたはずがエモくなっている。

でも、そう、わたしがやりたいのは何かしらの形で人が興奮するような世界を創ることなのだ。

こういうエモい文章をわざわざ公開することによって自分の士気を奮い立たせ続けようという、マゾな発想で書き始めたといっても過言ではないが、ちょっと恥ずかしいな…次この日記を見るときは精神的にヤられた時かな。