不快感で満ち溢れている

フィクションかもしれません

食べたい寝たい遊びたいという純粋な欲にポジティブでありたい

私はご飯が大好きである。昼ごはんを食べながら夜ごはんのことを考えているし、最後の三口くらいになって「あゝ、あと少しでごはんが無くなる」ととんでもなくエモい気持ちになってしまう。

美味しいごはんは体を作るのと同時に心も満たしてくれる。味の薄いごはんを食べると舌が萎えちゃって、箸を持つ力さえ奪われる。美味しいごはんには一定の「豊かさ」が必要だ。いい味、食感、風味、見た目…食の豊かさを満たしていないと「美味しいごはん」と呼んでよいのか分からない。

 美味しいごはん、つまり、豊かな食はそれなりにお金が無いと体験できない。100円ローソンで買った鯖缶とつくねと、サトウのご飯。それだけで十分かもしれない。だけど心は満たされますか?1300円の温か〜いほろほろビーフカレーを食べるのとは全然違う。ましてや数千円出して食べるフレンチコースはきっと格別だ。なに言ってんだよ、阿佐ヶ谷のやっすい居酒屋は最高だよ!という人も居るでしょう。でもその豊かさは「人」で埋められているはずだ。居酒屋の豊かさは安くてうまいご飯よりも、美味しいお酒と楽しい人たちとの時間だ。

「豊かさ」を求めるためにはそれなりに対価が伴うんだ。

映画だって、美術鑑賞だってそうだ。今はネットでフリーで色んなもの見れるけど、知見の豊かさを深めるためには結局お金が必要だ。教育、とかね。あとメンタルの豊かさを養うための娯楽にもお金は伴う。ひょっとすると娯楽は一番お金が必要かもしれない。

寝たいっていうのはタダだね。極上の西川ふとんで寝たいという欲がない限りは。でも寝たいっていうのは「時間」の豊かさが必要だ。仮に今、のんびり過ごせる時間が十分にあれば「寝たい」なんて頻繁に口にしないでしょう。

要するに何かしらの欲を叶えるためには「豊かさ」が必要だ。でもその豊かさが無いからって、純粋な欲を諦めることはしたくないなって常々思う。ましては純粋な欲を口にしないでいることなんて、そんな苦しいことしたくない。

コンビニのたらこおにぎりを食べた後に「あ〜築地の海鮮丼食べたい」って言って、「え、今食べてるじゃん…」とか言われたくない。

その豊かさが叶えられるかはともかく、心でその豊かさを追い求めることを辞めたら、とんでもなく悲壮感に溢れた生活しか待ってないと思うんだよ。だからいくつになっても、純粋な欲望をポジティブに受け入れて、その欲望を楽しんでいたいな、と思うのである。